仙台駅西口バスターミナル16番で一日乗車券(大人630円)を購入し、出発時刻を待つバス※に乗り込みました。
※「るーぷる仙台」は仙台駅前を起点に、仙台市内中心部のオススメ観光スポットを約70分で循環し、平日は20分、土・日・祝日は15分(8月全日は15分)間隔で運行します。 ―仙台観光マップより引用―

バス停No.5「博物館・国際センター・緑彩館前」で下車。バス進行方向に沿って歩いて行くと、仙台城跡の地図が視界に入ってきました。
《仙台市博物館》を目指し、歩道を直進します。

次に掲示されている地図を閲覧。目指す《仙台市博物館》は東丸(三の丸)跡に建てられたのですね。ここを左折。

右手に三の丸堀跡を眺めながら歩を進めると、駐車場の先に大きな建物が視界に入ってきました。聳えるシンボル・ツリーに圧倒されます。窓に映り込んだ水色の空・緑色の樹形もまた清々しい。

仙台市博物館では《春の常設展 6月28日まで》《特別展「もしも猫展」6月7日まで》が開催されています。本日の私の目当ては常設展になります。
階段を上り、2階受付カウンターへ。観覧料は一般・大学生460円。携帯していた日傘をスタッフに預けました。

膨大な展示資料の中から、伊達家に纏わる資料をランダムにご紹介しましょう。以下、茶色の文字で表記した箇所は、展示室内の解説より一部引用しました。

武士の時代へ 戦国の南奥羽
戦国時代(15−16世紀)には、全国各地で、領域を排他的に支配する領主があらわれた。現在の宮城県域も例外ではなく、大崎氏や留守 氏、国分 氏などの領主たちが、時に争い、時に友好関係を築き、それぞれの領域を支配していた。(中略) 鎌倉時代から福島県伊達郡一帯を拠点としていた伊達 氏は、戦国時代には福島県北部、山形県南部、そして仙台市域を含む宮城県の南半分まで勢力を拡大した。伊達氏の領域支配やほかの領主たちとの関係は、重要文化財「伊達家 文書」などからうかがえる。

別の展示品のガラス面への映り込みをご容赦ください。留守氏といえば、大河ドラマ『独眼竜政宗』で、長塚京三さんが政宗の叔父・留守政景を演じていました。臣下の立場に徹し、政宗を終生支え続けた献身が印象的でした。
子供から大人まで学ぶことのできる《仙台城》の模型が展示されています。

この模型は、元禄期(1688〜1703)と推測される図面を元に推定復元したものである。(中略) 政宗が築いた本丸は、南を竜の口渓谷、東を広瀬川、西を青葉山に守られた丘陵上(標高約115m)に位置する天然の要塞だった。一方2代藩主忠宗が政宗の死後築いた二の丸(現東北大学文系学部)は標高約61mで広い敷地を持ち、藩政の中心となった。また、三の丸(現仙台市博物館)は政宗の時代には藩主の屋敷だったと推測され、後に藩の米蔵が置かれた。(以下、割愛)
三の丸から二の丸・本丸へ藩主が移動する時も、藩士同様、唯一架けられていたこの橋を利用したのですね。

伊達政宗が築いた仙台城を代表する建物は大広間である。大広間は俗に「千畳敷」と呼ばれ、その規模は発掘成果によって東西33.5m、南北26.3m、建築面積は約215坪におよぶことが明らかとなった。(以下、割愛)
山城でありながら、そこまで広大な大広間を設けていたとは。政宗公のスケールの大きさを窺うことのできる史料です。
仙台城本丸石垣の変遷 仙台城本丸北側の石垣は、平成9年から平成16年にかけて修復工事に伴う発掘調査が行われた。調査の結果、現石垣(Ⅲ期)の内側から、伊達政宗による築城期の石垣(Ⅰ期)と、その後築き直された石垣(Ⅱ期)が発見された。(以下、割愛)

パネル等を撮影していたら、館内ガイドさんが近くに来て解説してくださいました。展示されている石材は、右側が石垣の表、左側が奥なんだそうです。同様に成形された石材が複数並び、まさに楔を打ち込むように石垣が築かれていたとのこと。
伊達政宗 (前略) 慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦の後、政宗は岩出山から仙台に城を移し、町づくりと国づくりに力を注いだ。仙台藩62万石の基礎を築きあげた藩祖政宗は、一方で能楽や茶の湯、和歌などの文芸をたしなむ文化人としての一面ももっていた。

(前略) 胴は黒漆を塗った五枚の鉄板から成り、「五枚胴」と呼ばれる。この形式は「仙台胴」とも呼ばれ、仙台藩では歴代の藩主や家臣たちが同形式の具足を着けた。

この前立を拝見すると、大河ドラマ『独眼竜政宗』で政宗に扮した渡辺謙さんの雄々しい姿を思い起こします。
城 仙台城のすがた
伊達政宗は慶長5年(1600)、青葉山に仙台城を築き始め、翌年には城下町をつくり始めた。(中略) 慶長15年(1610)には、城の中心的な建物である大広間が完成する。政宗の没後、2代藩主忠宗が二の丸を築くと、本丸は主に儀式を行う場となり、藩政の中心は本丸よりも広い敷地を有する二の丸に移った。(以下、割愛)
✧仙台城修復伺絵図 享保6年(1721) 館蔵
享保6年 閏7月2日の大雨と洪水で被災した仙台城の修復を、江戸幕府に申請した絵図の控え。(以下割愛)

ゲリラ豪雨は江戸時代も頻発していたのですね。ひとたび広瀬川が氾濫すると、二の丸以下、標高の低い地域はひとたまりもなかったでしょうね。
✧家紋瓦 仙台城本丸跡出土 江戸時代
(前略)展示しているのは本丸跡から出土した軒丸瓦で、九曜紋や三引両紋が用いられている。(以下割愛)

一家に複数の家紋が存在する例を初めて知りました。
伊達家の家紋について詳述しているサイトを見つけたので、リンクを貼っておきます⇓
三の丸(東丸) (前略) 仙台藩の初代藩主である伊達政宗の邸宅や庭があったとされ、発掘調査で茶室や池の跡が見つかっています。ニ代藩主である伊達忠宗によって二の丸が作られた後は、藩の倉庫が置かれました。(以下、割愛)
仙台藩主 伊達政宗
伊達政宗 伊達政宗は永禄10年(1567)、伊達氏の17世として米沢城(山形県米沢市)に生まれた。青年期の政宗は合戦を重ね、南奥羽に領地を拡大する。しかし豊臣秀吉の奥羽仕置により領地を没収され、米沢から現在の宮城県北部の岩出山へ本拠地を移すことになった。(以下、前出解説と同じ)
✧伊達政宗画像〈複製〉 原本は狩野安信※筆 酒井伯元賛
(前略) 仙台に本拠を構えた政宗は、大崎八幡宮や松島瑞厳寺、仙台城本丸などを次々と建設した。建築にあたって、上方から大工とともに、狩野左京という絵師を招き、桃山美術を仙台に花開かせた。

※安信は狩野探幽の弟。昨春、東京藝術大学【相国寺展】において、探幽・尚信・安信三兄弟による三幅一対の掛け軸《観音猿猴図》を拝見しました。
瑞鳳殿発掘資料 江戸初期(17世紀) 伊達貞宗氏寄贈 伊達政宗の墓所の発掘によって、政宗が生前所持していた品々が発見された。墓所から発見された鉛筆や金製ブローチは、仙台城本丸跡から出土したガラス製品とともに、南蛮文化を物語る品であり、政宗の南蛮好みをうかがわせる。

政宗公が愛用されていた品々を拝見。隠居されてからは、書簡をしたためたり、和歌を創ったり、煙草を嗜んだり…。リラックスした日々を過ごされていたのでしょうね。懐中鏡はお母様の形見かしら。
✧金梨地牡丹紋旗箱 江戸時代中期 館蔵(伊達家寄贈文化財)
中央に大きく伊達家の家紋の一つである牡丹紋を表した旗箱。牡丹紋は延宝8年(1680)に藤原氏宗家である近衛家から貰った紋である。(以下、割愛)

近衛家から家紋を下賜される――そんな栄誉が何度かあって、伊達家は家紋を複数所有することになったのでしょうか。この《牡丹紋》はとりわけ風格があって美しい。
✧竹に雀紋蒔絵色紙箱 江戸時代後期 館蔵(伊達家寄贈文化財)
黒漆地に竹に雀紋を大きく配し蒔絵で表す。竹の節の部分には銀を撒き、やわらかなぼかしとしている。

先だって玉虫塗/直営店で、竹・雀をデザインした名刺入・ペンケースを拝見しました。全く異なるデザインでしたが、お膝元でもあり、こちらの家紋に着想を得た商品なのでしょうね。この《竹に雀紋》は、羽を広げた、顔に模様のある雀が向かい合うデザインです。

仙台藩のようす
仙台藩の領地は、現在の宮城県を中心に岩手県南部と福島県の北部におよび、滋賀県・茨城県にある飛地を加えた石高は62万石であった。新田開発によって実際の生産高は100万石を超え、石巻から海路で江戸に出荷された米は仙台藩の重要な財源となった。(以下割愛)
名目は62万石。実際は100万石。天変地異に見舞われることさえなければ、領民の暮らし向きは、比較的豊かだったのでは。
✧伊達記 江戸時代後期(19世紀) 桂秀画 館蔵
伊達騒動を題材にし、虚実を織り交ぜた実録物と呼ばれる書物。筋書きに加え、精緻に描かれた挿絵が特徴的な作品。(以下、割愛)

挿絵の域を超えています。江戸時代は識字率が低かったでしょうから、挿絵のある読み物は人気があったのでしょうね。
仙台藩の家臣たち
(前略)仙台藩は、家臣に知行地として直接土地を与え、その年貢を家臣の収入にあてる地方知行制をとっている。領内の軍事的要地や交通の拠点となる場所には重臣が配置された。(以下、割愛)
仙台藩の武器・武具 (前略) 仙台藩では藩主や家臣の具足として、鉄砲などから身体を保護するため、胴部に五枚の鉄板を組み合わせる五枚胴形式のものが多く用いられた。(以下、割愛)

城下町仙台

慶長6年(1601)、伊達政宗は仙台城を築くとともに、城下町の整備を始めた。城から東に延びる大町と、南北に通じる奥州街道を基軸に、原則として碁盤の目状の町割を行った。この大町と奥州街道が交差する地点は「札の辻」または「芭蕉の辻」と呼ばれ、高札場が置かれる城下の中心地であった。(以下、割愛)

後の章『町のくらし』に解説がありますが、「丁」が武家屋敷を表していることをガイドさんから教えていただきました。⇑地図上で、「東一番丁・南光院丁・東二番丁・東三番丁・東四番丁・東五番丁…」この辺りは武家屋敷だったそうです。ちなみに、薄く表記されている区画・町名等は現在のもの。
伊達吉村時代の仙台城下絵図 今回は、仙台藩五代藩主伊達吉村の治世中(1703〜1743)の仙台城下を描いた絵図を紹介する。(中略) 吉村時代の城下絵図の描写は、道や屋敷の境界などの線が製図道具を用いずに描かれていることや、侍屋敷の居住者名が部分的に省略されていることなどの共通点がある。(以下、割愛)

✧仙台城下絵図 江戸時代後期 景観:享保9〜17年(1724〜32) 館蔵
伊達吉村の時代の仙台城下を描いた絵図。(以下、割愛)

周辺の山々が特徴的。仰ぎ見る存在を地図に落とす難しさが伝わってきます。
町のくらし
仙台の城下町は、身分によって居住地が分けられ、武士の住む地区を「丁」、町人や職人・足軽らの住む地区を「町」と呼び分けていた。人口は町人よりも武士の比率が高く、屋敷地についても町人より武士の占める割合が高かった。(以下、割愛)
町人より武士の比率の高い藩があったとは驚きです。財政の仕組みが気になります。
✧榴ヶ岡花見図屏風 江戸時代中期 館蔵(阿部次郎コレクション) 宮城県指定文化財
榴ヶ岡は4代藩主伊達綱村が母・三沢初子の供養のために元禄8年(1695)に釈迦堂を造営し、馬場や弓場を設け、枝垂れ桜などを植えたことから遊楽の場となった。(以下割愛)

映り込みを回避できませんでした。悪しからず。

新たな時代へ
嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが軍艦を率いて浦賀に来航し、開国を迫った。その圧力に屈した幕府は、アメリカのほか諸外国とも条約を結んだ。これを期に、国内では開国論と攘夷論が対立し、混乱の中、幕藩体制は崩壊へと向かう。(中略) このような情勢の中、仙台藩でも洋式軍艦 開成丸を建造するなど、湾岸防備や軍備の充実を進めていく。
仙台藩と幕末の情勢 (前略) 開国後に江戸幕府が天皇の許可なく外国との通商条約を締結したことで幕府を批判する尊王・攘夷運動が活発になるなか、仙台藩内でも政治的対立が起きている。(以下、割愛)
戊辰戦争と明治維新
慶應3年(1867)の大政奉還によって、幕府から朝廷へ政権が移った。しかし翌年、鳥羽・伏見で旧幕府勢力と新政府軍との間に軍事衝突が起こった。戊辰戦争の始まりである。新政府は旧幕府や会津藩などを朝敵として、東北地方にも追討軍を派遣した。会津藩救済のため、仙台藩・米沢藩が中心となって結成された奥羽越列藩同盟は、新政府軍に抵抗するが敗北に終わる。(以下、割愛)
当時矢面に立っていた会津藩と、東北地方の諸藩との関係性については殆ど知りませんでした。領地を増やすため熾烈な争いを繰り広げた政宗の時代には、他藩を擁護・支援する未来など全く想像できなかったのではないかと思う次第です。
仙台藩と戊辰戦争 (前略) 同盟諸藩は次々と敗北し、9月15日には仙台藩も降伏する。その結果、藩主 伊達慶邦・宗敦 父子は城地没収の上、謹慎を命じられた。新たに28万石を下賜され、仙台藩の再興を許された。
✧仙台様御出陣の行列図 慶応4年(1868) 4月 館蔵(斎藤報恩会寄贈資料)
会津藩を救うため各所に働きかけてきた仙台藩だが、新政府が派遣した奥羽鎮撫軍からの督促を受け、4月11日、会津藩追討のため出陣した。(以下、割愛)

こんなに密集した行列は初見。いくら何でも誇張が過ぎると思うのですが、幅の限られた紙面に目一杯、人を詰め込み、仙台藩の権威を示したのでしょうか。
近代都市仙台
仙台の産業と経済 明治・大正時代の仙台は、他の中核都市と比べ近代工業の著しい発展をみず、旧城下町以来の手工業や商業を主たる産業基盤とした消費都市としての性格を色濃く残していた。(中略) 昭和3年(1928)には伝統工芸の近代化による輸出振興を目指し、仙台市に商工省工芸指導所が設立され、東北地方の産業や技術者の育成に寄与した。
✧第二師団遠望の図 奥山無門筆 大正6年(1917) 館蔵
仙台市街を画面手前の大町から川内方面へ遠望して描いたもの。大正時代になっても大町周辺にはまだ旧武家屋敷の屋敷林が多く残っており、仙台市が「杜の都」と呼ばれる要因となった。(以下、割愛)


大正期の仙台市街はこんな感じだったのですね。広大な敷地を持つ洋館と、小さな民家が密集する区画との対比が際立っています。
以上、仙台市博物館《常設展》の展示をランダムにご紹介しました。観覧時間の目安は1時間半〜2時間。
