■明治丸の概要
明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌8年横浜に回航されました。(中略)
明治8年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。(中略)
明治9年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和16年に「海の記念日」が制定され、平成8年に国民の祝日「海の日」となりました。
※配布されたパンフより一部引用しました。
公共交通機関を利用する場合、行き方は数通りあります。私はJR京葉線・武蔵野線を利用しました。越中島駅で下車。2番出口より東京海洋大学/越中島キャンパスを目指します。徒歩4分程で正門に到着。「明治丸を見学したい」と守衛さんに伝えて門内へ。
⇓ やがて、立派な建物が視界に入ってきました。

⇓ 正面には《明治丸》が見えます。マストが3本立っていますね。「見学受付」の案内表示に従って進みます。

⇓ 左舷側から撮影。外階段が設けられています。

⇓ 船尾の方へ回り込んで撮影。船体に「MEIJI MARU」と明記されています。

ガイドさんが、明治丸を背景に見学者(ご夫婦)を撮影していました。別のガイドさんに「見学したい」と伝え、《明治丸記念館》で記名し、先のご夫婦に合流。見学者3名に対してガイドさん2名。あまりに暑く、この日は見学者が少なかった模様。
外階段を上りながら、窓を開閉する鎧戸を見学。分厚く強固にできています。上甲板に上がると、ガイドさんから明治丸の沿革について説明がありました。(東京海洋大学/公式サイトのリンクを文末に貼りました。そちらもご一読ください。)
ガイドさんのお話によると、夜の航海時、船体(船首・船尾・右舷・左舷)の目印としてオイル・ランプが使われていたそうです。右舷と左舷はランプの色が違うんだ…と思いましたが、何色だったかは失念。オイルを補充する度に芯が切られ、夜間はランプの灯りを監視する係がいた(主旨)そうです。
左舷を歩き、船尾へ向かいます。
⇓ 明かり取りの窓(天窓)。階下の主甲板にサロン(食卓)があります。

ガイドさんのお話によると、上甲板の材質は、厚み6cmのチーク材。一単位の価格が当時10万円、と聞いて驚きましたが、肝心の一単位の長さが曖昧に…。
⇓ 船尾には、帆の状態を視認しながら二人掛かりで操舵したという《舵輪》があります。ガイドさんの丁寧な説明を聞きましたが、門外漢ゆえ、半分も理解できませんでした。舵輪を一回転させると舵角が1度変わる、と説明されていたかと思います。(間違っていたらごめんなさい。)

《舵輪》について詳述しているサイトのリンクを貼っておきます⇓
⇓ 船長室を見学。奥に造り付けのベッドがあります。丸テーブルは当時、動かないよう固定されていたそうです。

⇓ 海図室を見学。海図に関する説明もありました。机の上に置かれたヤシの実は、甲板を磨くタワシとして切り口を活用したとのこと。

上甲板には船員用トイレ(小屋)が複数設けられていたようです。内部の設備は撤去され、現在は小屋のみ遺されています。(小屋の写真はありません。)
⇓ 通風筒が設置されています。船内を換気するための空気取入口として機能していた(主旨)とのこと。筒の部分に把手が2つ付いています。雨天時は、開口部を内側に回転させ、雨が降り込まないよう調整していたとのこと。錆びてしまって、現在は回転しないそうです。

⇓ 重厚な揚錨機に気圧されました。《揚錨機》をネット検索。錨を上げ下げする巻上げ機のことだそうです。ガイドさんの説明も当然ありましたが、よく覚えていません。

⇓ AIの解説によると、ダビットは、一般的にアーム、滑車、ウインチ、チェーンなどで構成されています。(以下、割愛)

⇓ 地上には《錨》も展示されています。

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⇓ 船上から景色を眺めると爽快です。

⇓ バウスプリットなるものが前方へ張り出しています。右手に見えるのは防潮堤。

《バウスプリット》について詳述しているサイトのリンクを貼っておきます ⇓
冒頭、パンフから明治丸の概要を一部引用しました。その続きをここでご紹介しましょう。
およそ20年間、燈台巡廻船として活躍した明治丸は、明治29年に商船学校(本学の前身)に譲渡されました。それからは係留練習船として昭和20年までの約50年間に、5000余人の海の若人を育てました。大正12年の関東大震災や、昭和20年の東京大空襲では、被災した多くの住民を収容し、災害救援にも貢献しています。
※配布されたパンフより一部引用しました。
⇓ 太いマストが聳えるように立っています。

ガイドさんの説明によると、真ん中のメイン・マストは、練習船となって大人数の訓練に対応するため設置されたもの。元々あったフォア・マスト、ミズン・マストは船倉まで貫いているが、メイン・マストは船倉まで届いていない(主旨)とのこと。

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上甲板の見学を終え、3等客用の階段を下ります。ガイドさんの説明によると、客室は船首側から3等客室→2等客室→1等客室と設けられていたそうです。船首に近いほど揺れが激しかったため、その順番だったそう。3等客室の定員は41名。記憶違いでなければ2等客室の定員は16名。

⇓ 階段を下り、右に視線を投じると、当時2等客室だった空間が拡がります。当時、3等客室とは仕切られていたそうです。公式サイトで明治31年時の主甲板平面図を拝見したら、3等客室「3B」(「3等ベッド」と解釈しました)の中に「2B」が4つ混じっていました。2等客なのに3等客室へ回された人たちもいたのでしょうか。

⇓ 反対方向に視線を投じると、当時3等客室だった空間が拡がります。現在は展示室。撮影しているうちに、他のメンバーから遅れてしまいました(-_-;) 真っ直ぐ進みます。

⇓ 奥に、機関員室がありました。(遅れた私を待っていてくれた)もう一人のガイドさんのお話では、この一角は当時のまま。壁面は溶接を用いず、ビスで固定されていたようです。(解釈が間違っていたらごめんなさい。)

⇓ 隣にも似た空間。ガイドさんのお話では、こちらは甲板員(帆専門の船員)室だったそうです。

⇓ 踵を返します。こちらの通路にはマストが展示されています。

主甲板の真ん中辺りの撮影は割愛しました。
⇓ 1等客室の手前に、明治天皇の御座所が設けられていました。通路を挟んだ正面に、上甲板に上がる階段があります。(上甲板から階段を下りて来ると左右に分岐。左の階段を数段下りると御座所入口、という構造。) ガイドさんのお話によると、船内で最も通風に恵まれた区画に御座所が設置された(主旨)とのこと。当時の船内は蒸し風呂状態だったのでしょうね。


⇑ 明治31年時の平面図を拝見すると、公室・寝室・浴室と並び、トイレが備え付けられていたようです。
⇓ 船倉で調理された料理をこちらで配膳したそうです。

⇓ 配膳室からこちらの棚に一旦料理を運んだそうです。

⇓ サロン/食卓の長椅子の背もたれは可動式。ガイドさんが実際に動かして見せてくれました。この画像のように、通路側からも腰掛けられます。

サロンの周囲に1等客室が設けられています。明治31年時の平面図を確認したところ、全部で8部屋。広い部屋が2部屋含まれています。
⇓ ベッドと長椅子が造り付けられています。

⇓ サロンの奥(船尾)に円形ソファが設置されています。このソファは新しく、見学者も腰掛けることができます。

ここで解散となりました。明治丸見学に要した時間は小一時間。⇓公式サイトで『開館カレンダー』を確認してからお出掛けください。天候・気候に左右されるスポットである点もご留意ください。時間が許せば、併設されている《明治丸記念館》《百周年記念資料館》の見学(所要時間20〜30分程度)もお薦めします。
―余談①― 上甲板で、ガイドさんから多岐にわたる解説がありました。ノート&鉛筆を携帯しましたが、あまりの暑さに日傘を閉じる決断がつかず、ひたすら耳を傾けました。ちゃんと聞いていたつもりでしたが、このブログを綴る時点で曖昧な記憶と化してしまいました😓
―余談②― 後日、グーグルの口コミを読んで、ガイドさんが東京海洋大学OBであることを知りました。昔取った杵柄。炎天下の上甲板、蒸し暑い主甲板で小一時間説明する大変なボランティアだと思いましたが、かつて厳しい訓練を積んだ経験が活きているのですね。