仙台駅西口/バスターミナル案内所で『るーぷる仙台』一日乗車券を購入。運賃は大人630円。(詳しくは、以前アップしたブログに掲載しましたので、今回は省略します。)
仙台駅を出発して20分ほど。バス停No.5「博物館・国際センター・緑彩館前」で下車します。先ずは、時刻表を撮影。
博物館はバス進行方向になりますが、逆方向に30秒ほど歩いて、広瀬川を撮影することにします。
大橋。『おほはし』と彫られています。まだ10時過ぎですが、早くも炎天下🌞


博物館へ向かいましょう。途中《緑彩館》に立ち寄りました。
緑彩館

敷地内で観光客を数人見かけました。夏休み前の平日とあって閑散としています。

エントランス右手の敷地内に『堀・片倉小十郎屋敷跡』という標示がありました。解説を引用しましょう。
(前略) この堀の東側には、延宝5年(1677年)から幕末まで、仙台藩の重臣 片倉小十郎の屋敷があった。片倉小十郎は、慶長7年(1602年)より白石城主として仙台藩領南方の防備を担っており、知行はおよそ18000石と、仙台藩における有数の大身侍であった。(以下、割愛)
「片倉小十郎」と言えば、大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987年)で、西郷輝彦さんが演じていました。昔から時代劇好きな私はリアルタイムで拝見。再放送を含めて、かれこれ7、8回視聴しています。
建物内へ。

政宗公 山鉾 (前略) 祭りの最大の見どころのひとつである山鉾巡行の先頭を行くのがこの「政宗公山鉾」だ。仙台市の市章にも使われている伊達家の三引両紋※が、側面の幕や旗などの飾りに多く取り入れられているのが特徴。 (以下、割愛)
(以前のブログでご紹介しましたが、) 伊達家の家紋について詳述しているサイトのリンクを貼っておきます⇓


飲食スペースも設けられているようです。私はサッと写真撮影だけして退出しました。
歩道に沿って、仙台城跡地を進みましょう。

《仙台市博物館》は、ここから4分ほど歩いた左前方にあります。
仙台市博物館

企画展《伊達政宗の挑戦状》の会期は7月10日から8月30日まで。観覧料は一般・大学生460円。(常設展と同料金です。)
2階【総合展示室】に展示されている《常設展》は前回見学したので、今回はざっと流すことにしました。
仙台城推定復元模型 この模型は、元禄期(1688〜1703)と推測される図面を元に推定復元したものである。(中略) 政宗が築いた本丸は、南を竜の口渓谷、東を広瀬川、西を青葉山に守られた丘陵上(標高約115m)に位置する天然の要害だった。一方2代藩主忠宗が政宗の死後築いた二の丸(現東北大学文系学部)は標高約61mで広い敷地を持ち、藩政の中心となった。また、三の丸(現仙台市博物館)は政宗の時代には藩主の屋敷だったと推測され、後に藩の米蔵が置かれた。(以下、割愛)
模型を拝見していたら、通り掛かった館内ガイドさん(『三の丸会』所属)が、前回来館した時と同様、丁寧に解説してくださいました。博識で親切。頼もしい方々です。
✢黒呉絽地 竹に雀紋 火事装束 羽織 伝伊達周宗所用 江戸時代後期 館蔵
墨色の薄手の毛織物(呉絽)で作られた火事装束。羽織と胸当がセットになっている。(中略) 九代藩主伊達 周宗の所用と伝わる。伊達家旧蔵。

黒地なので尚更、他の展示品の映り込みは必至(^_^;) 『竹に雀紋』が黒地に映えます。
✢太刀 無銘 鎌倉時代中期 館蔵
天正17年(1589)6月、伊達政宗が目赤の鶴とそれを捕った鷹を豊臣秀吉に献上した折に、返礼として贈られた太刀。(以下、割愛)


刀剣は、明治神宮宝物館(最寄:原宿駅)・静嘉堂文庫美術館(最寄:東京駅)で開催された展覧会等で沢山拝見しました。絵画の鑑賞眼は持ち合わせていますが、刀剣は未だ門外漢。
《仙台城推定復元模型》の前で説明してくださったガイドさんに「ブログにアップする予定です」と申し上げたら、本展の目玉となる、このガラスケース前に案内して下さいました。
✢重要文化財 銀伊予札白糸威胴丸具足 豊臣秀吉 (1537−1598) 所用、伊達政宗(1567−1636)拝領 桃山時代 館蔵(伊達家寄贈文化財)
天正18年(1590)7月、奥羽仕置のため会津へ向かう秀吉を宇都宮まで出迎えた伊達政宗が拝領した具足。胴は革製で軽く、銀箔を押し白糸で威す。兜は熊毛で包みヤクの毛の引廻しを付ける。総重量は約8kg。

ガイドさんのご説明によると、秀吉からの下賜を断った場合、切腹または打ち首になっても何ら不思議はなく、拝領するしか選択肢がなかったそうです。拝領する=臣下にくだることを意味し、程なく領地半減の憂き目に遭う訳ですが、その仕置に対して異議を申し立てることも叶わなかったそうです。
詳細については、仙台市の公式サイトに掲載されているので、リンクを貼っておきます⇓

こうして政宗公の威勢を削いだ秀吉は、この時53歳。片や政宗公は23歳。領地半減の仕置は、耐え難い屈辱だったことでしょうね。
✢仙台市指定文化財 黒漆五枚胴具足 伊達綱村(1659−1719)所用 兜銘「明珎宗道」
2歳で藩主となった伊達綱村の具足。少年時に着用したとみられ、小型の五枚胴具足である。 (以下、割愛)

伊達綱村は仙台藩4代藩主。2歳で藩主となった経緯等は、ググってヒットした記事を読んでみてください。
✢仙台市指定文化財 黒漆五枚胴具足 伊達斉邦(1817−1841) 所用 天保9年(1838) 中川望氏寄贈
十二代藩主・伊達 斉邦 所用の具足。(中略) 兜も伊達家においては珍しく星兜である。(中略) 伊達家旧蔵。

先の展示品(伊達綱村が所用した具足)と比較すると、形状はやや異なりますが、金色に輝く前立ては同一。黒漆を使用した重厚な雰囲気は変わりません。
✢鷹ゆがけ 伊達政宗所用 裏墨書銘「左内」 江戸時代初期 館蔵(伊達家寄贈文化財)
鷹狩の際、鷹をとまらせるため左手にはめる革製の手袋。(中略) 伊達政宗から菅野正左衛門重成に下賜されたうちの一つを、後に伊達家へ献上させたもの。

九曜紋が良いアクセントになっていますね。政宗公の手の大きさを容易に類推することができそうです。
✢重要文化財 黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用 桃山時代(16〜17世紀)
他の展示品の映り込みが激しく、写真撮影を諦めました。来館された時、じっくりご鑑賞ください。ご参考まで、仙台市の公式サイトのリンクを再び貼っておきます⇓
企画展《伊達政宗からの挑戦状》の趣旨について、公式サイトを拝読すると、現代に降臨した政宗公が博物館にやってきて、ご自身に関するクイズを出題したり、展示資料を解説したりするという内容。
当ブログでは、クイズの掲載は割愛しました。展示資料の解説については、政宗公の語り口をそのまま引用しました。
✢重要文化財 伊達政宗書状 最上氏義姫宛 文禄2年(1593)7月24日
これは、朝鮮半島に出陣していたわしが、我が母(義姫)へ自筆で書き送ったお礼の手紙じゃな。(中略) 朝鮮産の木綿を贈ることにし、命があればぜひまたお目にかかりたいと伝えたのじゃ。

義姫宛の政宗公自筆の書状とは、非常に興味深い。伊達家にまつわる私の知識の大半は、大河ドラマ『独眼竜政宗』から得たもの。昔の大河ドラマの脚本は史実に忠実だった、という認識があります。ドラマの中では、小田原へ参じる直前、母・義姫から毒を盛られた政宗公が、弟・小次郎を誅することで決着を図り、母は山形の実家へ逃れ…という設定でした。その3年後、母子で文をやりとりするまで関係を修復した裏付けとなる書状、とも言えそうです。少なくとも義姫は、書状を破り捨てず手元に置いた、ということですもの。
✢重要文化財 伊達政宗書状 宛名欠 (天正18年・1590) 6月14日
わしは、芦名を滅ぼした翌年に関白様に直接釈明するため、小田原へ向かったのじゃ。これは、その後の様子を伝えた自筆の手紙じゃな。関白様と面会して茶の湯に誘われたことや、戦って手に入れた会津は没収になったことなどを記したのじゃ。


こちらも政宗公自筆の書状ですね。政宗公の花押を拝見すると、このセキレイの眼も針の穴で開けられているものか気になります。
✢重要文化財 豊臣秀吉 御諚覚書 伊達政宗宛 文禄4年(1595) 8月24日
文禄4年7月の関白様(豊臣秀次)謀反事件では、わしもその謀反に加わったと疑われてしもうた。釈明して何とか許しを得たが、二度・三度と命を助けたからには、太閤様にも子の御拾 様(秀頼)にも忠節を尽くせと言われたのう。(以下、割愛)

政宗公自筆の書状が2通とも重要文化財に指定されているのは至極当然。翻って、秀吉の自筆ではないのに、同じく重要文化財に指定されているということは、秀吉から政宗公に宛てた覚書が特例だったのか、内容に歴史的意義を認めたのか…。
✢木村 宇右衛門 覚書 中 木村宇右衛門 可親 著 慶安5年 (1652) 頃
元和2年(1616)頃、娘婿の上総 様(松平忠輝)とわしに謀反の兆しありと噂が立ち、江戸にいる将軍様(ニ代秀忠)が仙台にいる我らを攻める、という動きが出たのじゃ。この書物にはそのことが書かれておる。すぐに駿府の大御所様(家康)の元へ馳せ参じ、何とか事なきを得たのじゃ。

豊臣秀吉に謀反を疑われ、徳川家康・秀忠にもまた謀反を疑われ…。再三の窮地を切り抜けた強運と才覚!
✢三体詩鈔 ニ之上 雪心素隠 著 寛永14年(1637)刊
(前略) 中国唐代(7〜10世紀)の漢詩の解釈をまとめた書物じゃな。わしが千代城をもとに仙台城を築く際、地名を「千代」から「仙台」へと改めたが、その際に漢詩の一節を参考にしたのう。

⇑画像▼箇所の漢字は『臺』の異体字のようです。漢詩の一節から命名するなんて、政宗公の教養の高さが窺えますよね。
✢仙台市指定文化財 菊桐文釘隠 江戸時代初期(17世紀)
これは、仙台城の建物で使われた金具じゃ。(中略) 金を用いて、伊達家の家紋である菊紋と桐紋を交互にあしらっておる。黒い部分には、魚の卵のような細かい細工(魚々子)もみられるのう。(以下、割愛)

先にご紹介したサイト【伊達家伯記念會】の記事によると、菊紋・桐紋は豊臣秀吉から拝領したもの。
✢宮城県指定文化財 扇面図 屏風 慶長15年(1610)
この屏風の絵は、わしが建てた仙台城本丸大広間を飾っていたものじゃ。白やピンクの花をつけた枝を大きく描き、その間に草花や橋などを描いた扇を散らしておる。黒っぽくみえるが、背景には小さな四角形の銀箔や粒状の銀をあしらっておるのじゃ。

二曲一双屏風。後世、屏風に仕立てられるケースも多々あるので、大広間を飾っていた当時は、屏風でなかったかもしれませんね。あくまで可能性として…。


✢奥州仙台城絵図 (複製) 原資料は正保2年(1645)
わしが死んでから、おおよそ10年後の絵図を複製したものじゃな。現在残っておる仙台城と城下町を描いた絵図としては、最も古いものと聞いた。 (以下、割愛)

うねるように黒色で描かれているのは広瀬川ですね。地図の端に『東・西・南』と記されています。

✢仙台市指定文化財 貞山公治家 記録 巻22 慶長14年(1609) 3月26日条 元禄16年(1703)
これは、慶長14年(1609)に松島円福寺の方丈(本堂)を造営し終えた時の記事じゃな。円福寺は松島に古くからある禅宗(臨済宗)の寺で、瑞巌寺と改名させたのじゃ。(以下、割愛)

✢松島塩竈図 屏風 長谷川宗圜筆 江戸時代前期(17世紀)
これは、松島と塩竈の風景を描いた屏風じゃな。(中略) わしが造営・修理に関わった瑞巌寺と塩竈神社も描かれておる。(以下、割愛)



数えたら右隻8曲、左隻4曲。はて。🫡周辺にボランティアの方の姿はなく、疑問を抱えたまま帰宅しました。
✢仙台市指定文化財 貞山公治家 記録 巻39上 寛永13年(1636)4月18日条
これは、わしが死ぬ一ヶ月ほど前に、自分の埋葬場所を指示した時の記事じゃな。わしは、母の菩提寺である保春院(仙台市若林区)からの帰り道に経ヶ峯(仙台市青葉区)に立ち寄り、その場所を家臣の奥山大学(常良)に杖で指示したのじゃ。そこがのちに墓所(瑞鳳殿)になったというわけじゃ。

ご自分の墓所を家臣に指示したのが、亡くなる一ヶ月前。虫が知らせた…ような感じでしょうか。義姫の菩提寺を訪ねた帰り道、というのも因縁を感じます。
✢仙台市指定文化財 貞山公治家 記録 巻39下 寛永13年(1636)5月24日条
これは、わしが死んだ時の記事じゃな。(中略) 70歳じゃった。辞世の句も書き留められておるのう。
曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く

権力闘争に身を投じた一方、風流人としての振る舞いも身に付けていた政宗公らしい辞世の句ですよね。
展示室間を移動する通路に、高札場(復元)が展示されていました。記憶にないのですが、前回来館した時もあったのかな?
✢高札場の復元 1984年製作

以上、印象に残った展示資料をご紹介しました。観覧に要する時間の目安は2時間。
降り立ったバス停へ戻り、循環バス『るーぷる仙台』に乗車。移動時間5分。バス停No.6「仙台城跡」で下車します。20分後のバスに乗車するつもりなので、時刻表の撮影は省略。
仙台城跡



仰ぎ見る度、凛々しいなぁ…美しいなぁ…と感心するこの騎馬像は、まさに仙台の象徴。
